2011年9月23日金曜日

父(勝山一義)のこと

今年、父母は金婚式を迎える。仲良く50年健康に過ごしてきているのであるからめでたく、幸いなことだ。私が暮に49才になるのだから、それだけの時間私にかかわりを持ってきてくれたのだ。

父は、新潟県中頚城郡清里村(現上越市)大字上深沢の生まれである。祖父(勝山一実)は、理科を教える教師であったと聞く。父は、高校進学の際学区を離れて、高田高校に進学することもできたのであるが、反骨精神から、地元の有恒高校に入学した。有恒高校は増村朴斎により創立された学校であり、大学卒業後、母校で教鞭をとることとなった。父は増村朴斎の影響を強く受けたようである。家の床の間には増村朴斎の銅像がある。
中学高校と、バスケットボール部で活躍していたという。また、スタンダールなどを読む読書少年であったという。バスケットばかりしていて、勉強に集中していなかった父を高等学校の担任の先生が、バスケットボール顧問の先生のいる前で、父のことを叱ったそうである。父はバスケットボール部を辞め、受験勉強に専念し、早稲田大学に合格した。何のために勉強をしなければならないかということについてもいろいろと悩んだということだが、つらいときには、それをしなければならない理由を考えるものであるとのこと。

早稲田大学では、東洋史を学びながらグリークラブでコーラスにもいそしんでいた。ボニージャックスのメンバーともそこで知り合っている。

有恒高校は、新潟県立の高等学校として再編されることとなるが、私が小学校低学年のころはまだ、父はまだ、有恒高校に勤務していたと記憶する。有恒高校時代には、生活指導部長をしていて、地元の警察より、交通事故減少への貢献として表彰された。

父は、有恒高校に勤務して、4年後ぐらいに母(古澤幸子)と結婚した。母は、隣村の農家の娘であったが、女性も職業に付くべきという信念から、諏訪の保育短期大学(当時は保育専門学校)に進学し、保母として働いていた。母の若いころの思い出は、自転車に乗っている姿が清々しい印象である。

私は、小学校1年の入学式を迎える直前に、交通事故に会い、半年ほど高田の知命堂病院に入院することになった。まる一日意識が戻らず、父母の心配はさぞかしであったろうと思う。

私の小学校の思い出は、小学校2年生の夏休みに父母に大阪万博に連れて行ってもらったことである。子供にとって衝撃的な印象を受けた。そのとき、妹のひな子は生まれていて、一緒にまわった。そのときの我が家の自動車は初代マツダファミリアである。万博見学最終日、大変な人出のなか、父は、母と私と妹を万博の入口に残したまま、一人で当日見学予定のソ連館などを回ってきた。半日待たされた。迷子になったのである。

夏休みには、妙高・火打に父と上った。山頂には雪渓がのこっており、雷鳥が鳴き、雨が下から吹き上げていた。私が中学2年生のとき、父は、内地留学で、当時の東京教育大学(茗荷谷)にいった。私は、夏休み東京で合流し、SONYの英語レッスンに参加したりしていた。

母は、保母として勤務している間に、お茶の師範としての免許を取り、現在は、高田と、糸魚川で計40人を教えている。退職後のたくわえになったのである。

私は、父母の退職金で買った東京のマンションに住まわせてもらっている。私はずっとすねっかじりだ。

父は、有恒高校12年間勤務の後、糸魚川商工、安塚高校大島分校、長岡大手高校、柏崎常盤高校を勤務し、県教育委員会勤務後、糸魚川高校校長、新潟商業高校校長として勤め60歳の定年を迎えた。糸魚川時代が長く、糸魚川高校校長時代に、空き農家を買い取り、退職後に、地域の寺子屋「ホコ自習館」を始めた。

ホコ自習館では、子供たちを見る傍ら、絵を書いたり、地元の人と文化イベントをしたり、地元のコーラスクラブに参加したり、家庭菜園をしたりと多忙な日々を送っている。

その後、父は直江津の五智(親鸞聖人上陸の地)に「ギャラリー潮騒」という「ホコ自習館」の別館を建築した。五智海岸に夕日を臨むロケーションの良い場所である。設計は、工事会社の関連事務所が行うことになっていたが、私も協力させてもらった。日本海に突き出すデッキ(後から私が自分で追加施工した)と吹き抜けのある、片流れの屋根の一軒家である。私も夏休みなどに利用させてもらっている。

ギャラリー潮騒(ホコ自習館 居多ヶ浜 館)
親鸞聖人が越後に流罪になった際の上陸の地 

ギャラリー内部

父母(ギャラリーの前で)
2002年8月 開館当時


ホコ自習館の館長として地域の子供たちの勉強を見ているときに、上越の私学「関根学園高校」より、校長として勤務する要請を受け、5年間そこで勤務した。勤務している間に校風も良くなった。父は校長として勤務しているとき、朝正門の前に立ち、登校する生徒一人ひとりに「おはようございます。」と声掛けを行った。始めのうちは、生徒の反応がなかったが、次第に生徒からも挨拶が返ってくるようになった。父は、五つの「あいさつ・ごみ・やさしさ・本分・よくなるように考える」という学校理念を作った。


建学の精神
(岳人は父の雅号、私の長女のために書す)

母校の有恒高校の創設者は増村朴斎であり、その建学の精神に影響を受けてきた。父は、その影響で関根学園の建学の精神は何かと考えてきて、学校理念(自分では、「建学の精神」と言っている)を作ったのである。上越の私学としては珍しく、東大に進学する生徒も輩出した。

関根学年勤務は4年間の予定であったが、請われてもう一年間勤務することになった。5年目の4月2日にふと、関根学園の創設者「関根萬司」の写真を見ていて、ふと、この人が夏目漱石の小説『坊っちゃん』のモデルではないかと閃いた。学校創設者への関心も高く、関根萬司が東京物理学校卒ということも知っていた。また、父は、大学一年の時の課題で、『坊っちゃん』についてレポートを提出したことがあり、その時に、大学図書館で読んだ参考書には、モデルが関根萬司であることが書いてあった記憶があるという。その書籍を探しに早稲田大学図書館を再び訪れたが発見できていない。

そして、そのモデル説を検証するために、図書館や、萬司の足跡を当たる旅に出た。その結果現在までに、2つの書籍を書いたことは、以前の投稿で記したとおりである。

2つの書籍まででは、『坊っちゃん』の主要な登場人物のうち山嵐のモデルが分からなかったが、その後の研究でわかってきたとのことである。小説に出でくる事件は、宮城県角田高校での騒動を漱石が弟子から報告を受けて、小説にしたということであるが、父は、モデル説について、新潟市や角田市でも講演を行う機会を得た。



1 件のコメント:

  1. 記事を読みました。
    自分が生きる上での参考になった。
    共感できる考え方もある。

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