2015年1月22日木曜日

相手を理解するということ。

相手を理解しようとするとき、
  1. 自分の心の中に相手のモデルを作り出している。
  2. モデルは自分の心の中に作るのだから。自分の心の要素で構成させるのである。したがって、自分の分身と言ってよい。
  3.  相手のすばらしさを理解できる能力は、すばらしい相手のモデルを自分の心の中に分身として、作り上げているのである。相手に怒りを覚えるということは、相手のモデルを自分の心の中に作ったとき、モデルが悪意を持っていると感じるためである。自分の心の要素に同様の悪意を持つ可能性を秘めている為である。
  4. つまり、相手を理解するということは、相手の中に自分を見つけているということ。また、見つけられない部分もあり、その部分は理解不能ということになるだろう。当然その過程で誤解も起こりうる。
  5. 相手に怒りを感じることは、自分にもそういう悪意の要素があり、それをモデルの中に発見することにより発生する感情である。
  6. したがって自分の中に善悪、美醜、真偽、損得等の価値観を全く持たない人にとっては、相手は心を持たないロボットのようにしか映らないだろう。感動や感謝の気持ちも起こらないということだ。
  7. 高潔な人であれば、相手の悪意を理解不能とし、怒りの感情は湧かないだろう。逆に相手の良いところをより感じ取るようになるだろう。
  8. だから、「下衆の勘繰り」などということわざもあるくらいだ。相手に怒りを感じるときは、自分を改善できる可能性のある部分と思うべき自分を見つけているのである。「人のふり見て我がふりなおせ」ということわざもある。相手を変えることはできないが、自分を変えることはできるのである。
  9. 以前に貪瞋痴(とんじんち)について書いたが、怒りの気持ち:瞋(じん)を抑える修行として、相手の理解のプロセスの理解が役に立つのではないか。
  10. 等と書いていると、様々な試練というか、本当にそうなのかというテストが自分の回りで発生することは、いつものことである。それができなければ、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。
  11. 六波羅蜜とは、布施・持戒 忍辱・精進 禅定・知恵 とのことであるが、貪瞋痴と対応していないだろうか 貪:布施・持戒 、 瞋:忍辱・精進 、 痴:禅定・知恵。
  12. たとえば、蚊に刺されたとき、蚊を憎むだろうか。蚊の心のモデルを自分の中に作り出し、その中に、蚊の悪意を感じるだろうか。そういう人は少ないのではないか。だから蚊に刺されても蚊に対して、怒りを覚えることはない。
  13. 御嶽山が噴火したら御嶽山の悪意をじるだろうか。地震や津波が発生したら地球の悪意を感じるだろうか。
  14. 心を持たないロボットに対してはどうだろうか? それともロボットに共感することがあれば、そのロボットは心を持っていると考えられるのだろうか。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿