- 自分の心の中に相手のモデルを作り出している。
- モデルは自分の心の中に作るのだから。自分の心の要素で構成させるのである。したがって、自分の分身と言ってよい。
- 相手のすばらしさを理解できる能力は、すばらしい相手のモデルを自分の心の中に分身として、作り上げているのである。相手に怒りを覚えるということは、相手のモデルを自分の心の中に作ったとき、モデルが悪意を持っていると感じるためである。自分の心の要素に同様の悪意を持つ可能性を秘めている為である。
- つまり、相手を理解するということは、相手の中に自分を見つけているということ。また、見つけられない部分もあり、その部分は理解不能ということになるだろう。当然その過程で誤解も起こりうる。
- 相手に怒りを感じることは、自分にもそういう悪意の要素があり、それをモデルの中に発見することにより発生する感情である。
- したがって自分の中に善悪、美醜、真偽、損得等の価値観を全く持たない人にとっては、相手は心を持たないロボットのようにしか映らないだろう。感動や感謝の気持ちも起こらないということだ。
- 高潔な人であれば、相手の悪意を理解不能とし、怒りの感情は湧かないだろう。逆に相手の良いところをより感じ取るようになるだろう。
- だから、「下衆の勘繰り」などということわざもあるくらいだ。相手に怒りを感じるときは、自分を改善できる可能性のある部分と思うべき。自分を見つけているのである。「人のふり見て我がふりなおせ」ということわざもある。相手を変えることはできないが、自分を変えることはできるのである。
- 以前に貪瞋痴(とんじんち)について書いたが、怒りの気持ち:瞋(じん)を抑える修行として、相手の理解のプロセスの理解が役に立つのではないか。
- 等と書いていると、様々な試練というか、本当にそうなのかというテストが自分の回りで発生することは、いつものことである。それができなければ、南無阿弥陀仏と唱えるしかない。
- 六波羅蜜とは、布施・持戒 忍辱・精進 禅定・知恵 とのことであるが、貪瞋痴と対応していないだろうか 貪:布施・持戒 、 瞋:忍辱・精進 、 痴:禅定・知恵。
- たとえば、蚊に刺されたとき、蚊を憎むだろうか。蚊の心のモデルを自分の中に作り出し、その中に、蚊の悪意を感じるだろうか。そういう人は少ないのではないか。だから蚊に刺されても蚊に対して、怒りを覚えることはない。
- 御嶽山が噴火したら御嶽山の悪意をじるだろうか。地震や津波が発生したら地球の悪意を感じるだろうか。
- 心を持たないロボットに対してはどうだろうか? それともロボットに共感することがあれば、そのロボットは心を持っていると考えられるのだろうか。
2015年1月22日木曜日
相手を理解するということ。
相手を理解しようとするとき、
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